子供の夏休みが始まった.
自分は子供の頃,田舎の小学校にいた.朝,ラジオ体操のために少し離れた集合場所まで歩いていくとき,木立の下に続く小径には朝靄が漂い,ひんやりしているものだった.ラジオ体操から帰って来ても結構涼しく,朝食後に夏休みの友なんぞやっていると,蝉が騒ぎだし,暑くなってくるものだった.
あの子供の頃の感覚は何なのだろうか?
今の子供達も似たような感覚を味わっているのか.
年齢による違いなのか.
それとも,あの時代だったからなのか.
子供の頃の感覚は研ぎ澄まされていた.
齢と共に鈍ってくる.少し寂しい.
私は田舎育ちだったこともあり,小学校4年生ぐらいまでは,野山を駆け回り思いっきり遊んだ.
夏休みは,遊ぶためにあった.
幸せだったと今でも思う.
夏休みの自由研究なんかやったことが無かった.やろうと努力はしたが,昆虫採集も植物採集も鉱物採集も貝殻採集も完成したものはなかった.ただ,少数のお気に入りの収集物(大人から見ればガラクタ)が数年間机の引出しに残っていたりした.
親がかりでできあがったものは子供心にも分かるもので,そういうものには敬意を払わない風があった.
最近は子供の夏休みの自由研究は,親がやるものになっている.自由研究が義務になっている小中学校では,親の取り組みが不可欠だ.親の知識と経済力と時間が子供の研究結果に反映される.
インターネットで検索すれば,夏休みの自由研究を行うためのセットが売られている.
斯くして子供に理解できないような原理を使った自由研究ができあがる.
間違っているのではないか.
昨今の教育現場に見られるもの.
強制的なボランティア活動,
課題が決まっている自由研究,
子供を時間的に追いつめるゆとり教育,
意図的言葉のまやかしなのか,本気で唱えているのか,普通の語彙を持つものには意味不明である.